北欧三国の「場」へのこだわり くにづくりに必要な気概と勇気
コペンハーゲンの空港の一隅にあるカフェテラスに、たくさんの乗り継ぎを待つ人々が、愉しそうに談笑している。まるで、我が家の居間でくつろいでいるようにリラックスしている。日照時間の少ない北欧では、しばしば、わずかな陽光を求めて、人々が集まってくる。
スカンジナヴィアのどの空港も共通していることであるが、空港だけでなくあらゆる公共の場が、人間サイズに造形されていて、木肌の美しい自然素材が上手に組み合わされている。
新しくできた成田の第1ターミナルは吹き抜けにしても、表示物にしても、ただ重厚長大で、カネのかかった施設ということは一目瞭然なのだが、何とも無機質で、人間サイズのの北欧の空港に比べ借物を着ているような雰囲気で馴染めない。メンテ要らずで、いかにも傷つきにくく、長持ちすることは分かるのだが、使う人よりも、作る人の論理や経済によってできあがっている感じがして仕方ない。同様に学校という場も、施設化しているのであるが、全ての日本の公共の施設(箱物)に共通していることなのである。その背景には、政治や行政のしくみが、まだまだ永田町業界と揶揄される程、利権や政治家の私欲に満ち、恩恵を享受するはずの国民、人間1人1人のためになされていないことと同義である。勿論こうしたことは知ってはいても、無関心を装い、真の革命に、何ら気概も勇気も持てない私たちこそ、本当の責任はある。
北欧で見てきた、あらゆる光景は、前回の拙文「小国寡民」で書いたように、岩倉使節団から130年経った今も、国の針路としてモデルにすべき事例にこと欠かず、寸分も色褪せていない。一例はこうだ。利用者本位の運営がなされ、夜中まで開いている市立図書館、改札の手間と人件費の方が無駄という理由で、切符の改札は利用者の自主性に任せている鉄道、どこかの国の高速道路の料金システムに是非、真似たいところだ。ハンディを持つ人々が、公平に街中を往来できるようにシステム化されたエレベーターや駅施設、驚かれるかもしれないが、プラットホームは、何の改札も通らず、ノンステップで、バスから降りたまま、直接電車に乗れるようになっている。鳴り物入りで駅員が付き添い、しかも、上がりのエスカレーターしかない、日本の駅施設に比べ、完璧なのである。コンサートホールも、人間サイズで、気軽に、何回でも開催できるように作られている。市の公園課の職員は、委託作業を極力減らし、自らが作業服で出勤し、一日中、小さな三輪車にミニポンプをはじめ造園作業の小道具を積んで、走り回っている。バス停、全てガラスの風除けに囲まれ、車椅子の人や老人がゆっくりとバスを待ち、周囲の景観を疎外しないように作られている。60才を過ぎたら年齢に関わりなく社会が公平に面倒をみる。これからのことがほんの一例なのである。
帰国し、テレビを見れば、お笑い芸人がメインキャスターとして世相を無責任に茶化し、新聞をめくればファンドだとか、米国にむしりとられ続けるカネの問題や、七光り組の首相後続争い等々、戦後60年の成長の成果が虚しく思える。中学3年から、8年間、欧米で留学体験をしてきた我が愚息は、こうした惨状をみて、同じネタを流しつづけるテレビを見ず、アメリカに帰りたいと嘆く始末。責任者は、小生であるが、最近は、この嘆きを人間らしい、素直な感情だと認めるようなってしまった。
どこに問題があるのか。要は本来、主体者である国民=人間のためにある政治をはじめとする全ての社会システムが、先の北欧諸国に健在している“人間中心のくにづくり”になっていないことに起因している。人間が自然の一部であるという重要認識に立てば、人間疎外は、自然への畏敬も不足している。従って、東京の海岸沿いに雨後のタケノコのように建つ、超高層マンションも、地震国である日本の自然を無視していると云える。どうだろうか。一旦、ことが起きれば、阪神大震災の時と同じように、対策本部の設置に十数時間を要し、何ら被害者のために効果のある対応をできない体制は、何ら変わっているとは思えない。もうこのままではいけない。再度、人間中心の視点に立って、人口問題、都市計画、年金、福祉等の重要課題について、独立国としての自負をもって国民的議論を重ね、社会が一丸となって新しい道を(道路は不要!)築く時である。この口火を切る気概と勇気が、私たち国民に求められている最重要責任である。直接の因果関係はないが、折からのワールドカップの日本惨敗も私感ではあるが、リーダーの選ばれ方と、この気概と勇気に関わっている。若し、昔の方が気概に満ちていたというのであれば、人間生活の場をキックバックして見直すことこそ重要である。